2012年07月

Tehom

 自分のブログで読書に関する随想文をUPするようになって以来、頻繁にお邪魔している読書ブログが数件あります。

 その数名の方たちの読書ブログでは、当然ではありますが、「本」、つまり「読書」にまつわる記事が掲載されています。これがまた興味深い。それというのも、著名人の書評はべつとして、世間一般の読書家さんたちの(販売目的ではない)純粋な読後感想・書評や読書歴といったものには、なかなか触れる機会がなかったからかもしれません。
 
 そのような純粋な読書家の一人で、シュタイナーの思想を中心に、諸々の哲学に通じているhasutamaさんのバタイユに関する記事を引用させていただきました。すこし、略させていただいてます。


バタイユさん 「宗教の理論」からの hasutama NOTE
不可能性の原則は、どんな哲学をも限界付けている
哲学は、はじめから、ある一つの分解できないような要請に応えている
哲学が喚起する問いに対する応答と独立して「存在する」ことは出来ない
哲学の応えは、哲学的な作業や探索の結果ではありえず次のことを所与のものとして前提としている

・個人的な立場を重んじないこと
・思想が運動性に富むこと
・すべての運動に思想が開かれ、可動的であること

自己満足せず未完了であることが、応えに結びつけられている

というか、むしろそれが応えと同質で不可分である
思想の移動する領域を、科学者が行うように、枠付けられた範囲に限定しなければ、獲得された認識を十全に同化し、吸収するのは不可能である

このことは思想の本質的な未完了に、事実として避けようのない未完了を付け加える
個人の思想というものはあり得ず 思想の実践的営為は、個人的なパースペクティブを拒むこと以外の出口を持つこともあり得ない 未完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける

↑今のところバタイユ氏に対し、たいへん共感しています
彼は面白い人です 
渦巻きの先の世界でいっしょに遊ぶ仲間を見つけたような気持ちです

追記

考えてみたいのは最後の
完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける

応える

叫ぶ

授ける

の主語は?

なぜ「叫ぶ」必要があるのか?




 引用させていただいた理由の一つは、hasutamaさんの
深い洞察力と簡潔な言葉による『問いかけ』にあります。この記事もそうですが、毎回、考えさせられます。たしかに哲学的『問い』には『答え』はありません。考え続けるのみです。

 もう一つの理由に下に掲載した書籍との関連性です。
つまり、G.バタイユとニーチェの関係性です。バタイユとニーチェの二人には、直接的な徒弟関係はありませんが、G.バタイユあたりは、本書『道徳の系譜』からかなり影響を受けているのではないか?と考えています。もともと、「ニーチェの思想」を辿っていることがバタイユの著作の特徴のひとつではあります。わたしの関心もこの点に集約しておりますが、実際には、あまり似ていないのではないかとも考えています。バタイユの場合、ニーチェの思想以外にも、読みどころが多いです。少し疲れますが、読んでおいて損はないと考えています。(個人的には、小説はスルーする予定です)
 「ニーチェの思想」に対する、バタイユの踏襲がゆるされるのは、ニーチェのそのアイデアを更に発展させてもう少しバタイユ(オカルト)的な雰囲気をオリジナルなものとして強調しているからかもしれません。また、ニーチェ以外の思想(ニーチェ以降の思想)が交錯しているので、ニーチェの思想とは全く違うものとして読むこともできます。 
 ただ、ニーチェもバタイユも、読んでいる人は少なそうですが。


P112
  怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである。
 
「善悪の彼岸」 箴言と間奏曲 146 新潮文庫 竹山道雄 訳


P111
 諸君はこの深淵を余り長く覗き込むことを自ら固く戒めなければならない。疑いもなく、ここには病気がある。これまで人間のうちに荒れ狂ってきた最も恐るべき病気がある。 ―そして拷苦と背理とのこの夜のうちに、愛の叫びが、最も憧憬的な狂喜の叫びが、愛における救いの叫びが響き渡っていたのをなお聞くことのできる者は(だが、今日われわれはもはやそれを聞き取る耳を持たないのだ!―)、打ち克ちがたい戦慄に囚えられて面を背ける・・・・・・ 人間のうちにはこれほど多くの愕くべきものがあるのだ!・・・・・・ 地上はすでに余りに長い間癪狂院であったのだ!・・・・・・

「道徳の系譜」 岩波文庫33-639-4 木場深定 訳




  道徳の系譜 (岩波文庫)  



 本書は、もともと、ニーチェが『善悪の彼岸』の補説書として出版されたものです。ある意味ニーチェ思想の全体像をあらわしているともいえます。ニーチェ自身の説明では入門書とのことです。

 本書にも書かれていますが、出版方法は「男爵ばりの遣り方で」 = すなわち著者の自費で出版されたものです。自著の解説をかねて自費で出版とは、これもまた、ニーチェらしいです。
 また、本書で興味深いのは、『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』を読み解くヒントのようなものまで、散りばめられている点にあります。
 ニーチェらしいロジックの展開も目白押しですし、この著作執筆時は、まだ、精神疾患がひどくなる以前の作品ですので混乱をきたす表現はありません。本書は3つの論文 (  これ論文?)で構成されています。

第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」
第二論文 「負い目」・「良心の疚しさ」・その他
第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

論文とはいえ、相変わらずの論調です。

ニーチェが表現している

「怪物」とはなにか?「深淵」とはなにか?

Untergehen

深淵(しんえん): 深い淵や水の深く淀んだ場所を指す語。英語のabyssに対応する。 新共同訳聖書では創世記に登場する単語テホム(en:Tehom)の訳語として用いられている。

フレッド・ゲティングズ著『悪魔の辞典』によると、悪魔学においては「進化の終着点」を意味し、すなわち人間の行き着く最後の未来を意味する。これから連想が進み、ヨハネの黙示録のアバドンといったイメージになった。カバラの学者は深淵をマサク・マヴディルと表現し、落伍者の行き着く場所と解釈している。



P7-8 序言
 われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない。それはそのはずである。われわれは決してわれわれを探し求めたことがないのだ。 ―― われわれがいつかはわれわれを見出すであろうなどと、そんなことがどうして起こるというのか。
                       ~中略~
 われわれはいつまでもわれわれ自身にとって必然に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。われわれはわれわれを取り違えざるをえない。われわれに対しては「各人は各自に最も遠いものである」という格言が永遠に当てはまる。―― われわれに対しては、われわれは決して「認識者」ではないのだ・・・・・・

 「道徳の系譜」 岩波文庫33-639-4 木場深定 訳


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