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ケガレ (講談社学術文庫)ケガレ (講談社学術文庫)
(2009/07/13)
波平 恵美子

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第1章 「ケガレ」観念をめぐる論議とその重要性(民間信仰におけるケガレの観念の重要性
松平斉光におけるケガレ論
柳田国男におけるケガレ論
最近のケガレ論―桜井・薗田・宮田におけるケガレ論
岡田重精のイミの研究
波平のケガレ論)
第2章 民間信仰におけるケガレ観念の諸相―黒不浄・赤不浄・その他(死に係わるケガレ―黒不浄
出産・月経とケガレ―赤不浄
罪とケガレ・病とケガレ・その他
火とケガレ)
第3章 空間と時間とにおけるハレ・ケ・ケガレの観念(空間の認識におけるハレ・ケ・ケガレ
時間の認識におけるハレ・ケ・ケガレと年中行事再考)
第4章 「災因論」としてのケガレ観念と儀礼(災いの原因の説明としてのケガレ
「災因論」としてのケガレ観念の多様性
メアリー・ダグラスにおける不浄と危険の理論)

 



 昨年末から年初にかけて、メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』 Purity and Danger: を読み、 いろいろと考えを巡らせておりました。内容はかなり面白いのですが、どうもスッキリしない。 スッキリしない理由は何か? 自問自答。

 日本の「穢れ・ケガレ」観念とは異なる概念が含まれているからなのか。
もちろん、『汚穢と禁忌』のなかにも、日本の文化に近い「穢れ・ケガレ」観念は描かれてはいます。しかし、いま一つスッキリしない。それが何故なのかも、 よくわからない。 ひょっとすると、pollutionを「ケガレ」と同一視してしまうところに違和感を感じてしまうのか。 確かに、日本の「ケガレ」観はもっと複雑で多義的であるはずだ。
 
 そのような曖昧な感覚をスッキリさせてくれた書籍、波平恵美子 「ケガレ」

 本書にたどり着くまでの書籍選択には紆余曲折がありました。

 先月、西洋の「ケガレ」観と日本の「ケガレ」観を比較できる関連書籍を渉猟しようと探索開始。
メアリ・ダグラスつながりで海外の著作に当るのも限界がある。そんな考え(手前勝手な解釈)を踏まえて、「ケガレ」をキーワードに、(あまり時代を遡らず) 比較的新しい書籍をあたりました。
 
 それで、以前から気になっていた波平恵美子「ケガレ」を入手。
実際、本書は、「ケガレ」を中心に多岐にわたる副次的題材を綿密に調べた良書でした。



 本書のなかでとりあげられている事例には、本当に日本の習俗かと疑いたくなるようなものもあります。また、おそらく、今日においては廃れてしまっているであろう儀礼(特に葬儀)もこと細かく書かれており、 民俗学が失われた風習・文化を調査する 学問でもあるということを再認識しました。
 
 そのなかでも、特筆すべき点は、というよりも、自分にとって印象が強かったのは、


第3章 空間と時間とにおけるハレ・ケ・ケガレの観念 

でした。

 この第3章の中でも、日本の空間(境界)に対する「ケガレ」観の説明は圧巻でした。

 神聖である 「境界」、すなわち、(両義的意味を含む)空間的「ケガレ」は、本書でいうところの「辻、峠、坂、境」などのことで、なぜ、「山守」「川守」「境守」という職能民が存在し賤視されたのかという謎も明確にしてくれました。先述の『汚穢と禁忌』で説明されている不安定な社会的属性という意味での「境界」とは異なり、空間的な「境界」の説明である。この部分の論述はたいへん興味深い。
 一般的には、どちらかというと、「境界」 と「ケガレ」を題材とする書籍には、空間的なものよりも、ターナーのリミナリティ:liminalityに近い概念の記述が多いように思う。 メアリ・ダグラスの「境界」に関する論述もその系統に入る。その点この空間と時間認識における「ケガレ」は日本独特なものなのかもしれません。
 また、本章で、網野善彦氏、塩見氏の 著述にリンクする感覚を味わえたのは、本書の副産物ともいえそうです。

 他にも、職業としての日常的な「ケガレ」 (農業以外の職能民)が賤視につながる構造も明確にしようとされている論考もあり、聖別が賤視に逆転する構造も納得の説明である。このあたりの説明は、海外の学者の分析よりも日本人の分析による説明 の方が繊細で違和感を感じない。

  また、この波平女史は、メアリ・ダグラスに同調的な立場も示しています。本書巻末には、メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』から、日本の「ケガレ」観 に近い各国共通ともいえる普遍的な概念を取り上げてまとめていました。 


最後に、
 興味深い内容のひとつに、
日本独特の古代信仰「primitiveなカミ」と「異文化的存在の仏教」との拮抗する様子も描かれており、 仏教が死を忌む論理を持たないがための摩擦といえそうである。 語弊を恐れずにいえば、仏教の方が合理的であるとも考えられそうである。 




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Who is that?

弾左衛門とその時代 (河出文庫)弾左衛門とその時代 (河出文庫)
(2008/01/05)
塩見 鮮一郎

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 数年前に読了した書籍です。ブログに書き残すために改めて読みなおすことにしました。

 本書の内容からは、すこし逸れてしまいますが、1990年代に被差別民のルーツをさぐる史学・民俗学的な研究が急速に進んだという内容が網野氏の書籍に記されておりました。いわゆる、アカデミックな分野には、既成概念にとらわれて調査が進んでいない、もしくは、見過ごされている分野があるようです。網野氏の説明の受け売りになってしまいますが、史学において、ある特殊な分野の職種・職能を説明する学術用語が存在しないため論文による紹介ができないことも書かれておりました。(正確には、該当する専門用語がない史実は、論文として認められないということらしいですが・・・・・・)

 そのため、学術的研究だけでは、正確な史実を十分に捉えきれないのかもしれないなどとぼんやり考えておりました。ただ、実際にはそのようなこともなく、直近においても、新しい研究者による極めて綿密なフィールドワークが進展しているようです。
 そんな取り留めのないことを考えていた折に、ちょっとした縁に触れて、塩見鮮一郎氏の著作にたどり着きました。同氏は、もともと河出書房の編集者であり、このジャンル(とくに近世の弾左衛門制度)におけるスペシャリスト的な著述家です。個人的には、「在野の研究者」として著者を捉えております。ここ1~2年のあいだ、史学の権威、 網野氏の著作と塩見氏の本を読み比べておりましたが、両者どちらも著述に対する真摯な姿勢があらわれていて内容に全幅の信頼がおけます。



 本題にもどりますが、
 本書の主題である、職掌『*弾左衛門』も含め、被差別民は、特殊な『職能民』であったというのが学術的な見解の一部をなしております。あくまでも、見解の一部ではあります。 その職能も多種多様であることもあって、まだ、完全な解明がされていない研究分野です。人権にかかわる要素も有するため繊細な対応が問われるようです。 

  その特殊な職能民のなかに、神人、境守、山守、猿引、長吏、傀儡師、乞食などや、猿楽などの芸能民などが含まれます。なぜ、蔑視されるようになったのかについては、部分的ではありますが、未解明の事柄もあり、未だに完全なる解明には達しておりません。
 また、上述した職能民のなかでも、神人はその職能分野が特殊で、本書においては、座をつくり、独占的に油や灯芯などを扱っていた職能民として描かれています。神人は、僧形・覆面の出で立ちの集団で非人とはことなる俗体、童形の河原者集団であり神事にかかわりが深く、自らを聖別させようとしていたようです。
 また、本書のなかでは扱われていませんが、春日大社の神人などは、黄色い袈裟を着て、ご神体である球体を移動させるだけの職務をおこなう職能民であったと伺ったこともあります。ただ、この後者の春日大社の神人は、神人のなかでも、かなり特殊な職能民で、先述の座をまとめる神人の方が一般的であると考えられます。 


 ともあれ、本書の『弾左衛門』は、もともとは、灯芯の専売権を有していた神人の末裔であり、長吏頭であったという説が主流のようです。また、処刑係であったという説もあり謎が多いです(もともと、中世においては、神人や馬借が住宅破却の刑吏を担当していた史実もある)。 また、『弾左衛門』は、表向きの史実として出てくることが少ないため、明確な由緒書などの古文書があっても照らし合わせるべき情報が少ないのも問題点のひとつといえそうです。本書巻末に弾左衛門由緒書や頼朝御証文も添付されておりますが、神人の証文のなかには利権を狙った偽書もあり鵜呑みにはできないということもあります。 この点については、塩見氏にとっても織り込み済みのようでして、下調べが綿密に行われており、真偽のほどは間違いなさそうです。

*弾左衛門:
関八州の組織化された非差別民の管理、斃牛馬処理の独占的運営、下級刑吏による治安維持を担っていた。人の名前ではなく職掌を表しています。「第13代弾左衛門 矢野直樹」といった具合です。 「弾左衛門」の「弾」の字には、「ただす」、「罪をただす(弾す=糺す)」の意味があるそうでして、古くは律令制での警察機関も「正台 だんじょうだい」と呼ばれていたそうです。 



 



 本書においては、近世以降の「弾左衛門」制度についての著述に特化していますが、中世後期、後北条氏の極楽寺由比の弾左衛門や 、近世前後の、小田原長吏の太郎左衛門、大磯の長吏 助左衛門、古沢の太郎右衛門に関する説明も記載されています。 このことは、下記の一文を結論としている証左と言えそうです。


P148
 江戸時代における「弾左衛門制度」というのは、家康によって創成されたものではなく、中世後北条のころのシステムを踏襲したものである 。



 弾左衛門制度というスポット的な調査ではありますが、塩見氏がかなり深いところまで調べていることがわかります。本書を読むと学術研究と相変らぬほどの綿密な調査、フィールドワークを行っている様子が垣間見れるとおもいます。
 
弾左衛門の支配をのがれた芸能民のなかに歌舞伎があります。以下はウィキペディアからの引用です。


芸能民のなかでも、傀儡師や歌舞伎は弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。1713年初演の歌舞伎十八番の一つ『助六』は、市川團十郎 (2代目)が弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は、1709年に死去した弾左衛門集誓をモデルにしたと言われている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。Wikipedia参照

補足:ちなみに、『助六』の正式呼称は、『助六所縁江戸桜 すけろくゆかりのえどざくら』です。
 

 塩見氏や、網野氏の、このような本を読むたびに、自分が日本の史実の表面的なものしか学んでいなかったことに気づかされます。

Animism

『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る-』

 先日、
読み終えた民俗学系の書籍です。著者である沖浦氏は、民俗学においては著名な研究者のようです。 本書で取り扱われる『竹』は主題というよりも、日本文化の深層を探る入り口にしているように感じます。 個人的な感想としては、『日本民族の源流』に重点をおいている著作のように思われます。
竹の民俗誌―日本文化の深層を探る (岩波新書)竹の民俗誌―日本文化の深層を探る (岩波新書)
(1991/09/20)
沖浦 和光

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P218 第5章 5.日本文化の深層へ カオス的植物としての竹

 有史以前のアニミズムの時代、すなわち、まだ宗教が成立していない縄文・弥生の呪術万能の時代では、≪竹≫には呪力があり、「箕」や「籠」は霊力のある呪具とみなされていた。
 竹が呪物とされたのは、<凡草衆木>には見られぬその植物的特性にもとづいていた。その時代を生きたヒトの想像力によって、タケに一定の意味付与がなされて、人力の及ばぬ霊力があるとされたのである。つまり、植物としてのタケから引き離されて、≪竹≫が、特別の呪術的なモノとして捉えられたのだ。
 ~中略~ 古墳時代に入っても、まだ竹の呪術性はその残影が認められていた。 タケは、当時の人びとの植物に関する分類概念をハミ出した特異な植物であった。「木でもなければ草でもない」 ――このようにタケは、はっきりした境界をもたないどっちつかずのマージナルな存在であった。その本質がつかめず実体が曖昧なものは、<聖・俗・穢>がまだ未分化の、万物生成以前の混沌に関わるモノであった。混沌(カオス)は、秩序が成立する以前の、定かなものがまだ見えぬ時空で、自然に内在する神々が森羅万象を動かしていると考えられていた。その神々の霊力と感応しうるカオス的植物とみられていたから、竹は呪物として用いられたのであろう。 

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本書は、竹にまつわる「西の文化圏」について素晴らしい研究が記述されている著作です。
 
 大和王朝成立以前の古代の南方系海洋民文化に関する記述も多彩です。今まで知らなかった日本の先住民の起源について、『竹』にまつわるエピソードから流れるように解説が進んでいきます。
 
 日本の古代(縄文・弥生)人に関する常識や、
古来の日本文化に対する何となく「そうであろう」という曖昧でもやもやした概念が、本書を読み進めるのなかで、スッキリと明確になっていく感覚が爽快です。特に、阿陀の里と「薩摩隼人、阿多隼人」と馬来人(古マレー系民族)など風習や文化の関連性は、今後の新しい発表も気になるところです。ちなみに、インドネシアのスラウェシ島トラジャ地方の民族も古マレー系民族で竹の呪力を信じている風習があるそうです。

 民俗学というと、本書後半で展開されるような、触穢思想、浄穢思想をはなれてアプローチはできません。この思想自体、本書にも記述されているとおりで、道教や儒教からきているものではなく、ヒンドゥー教から発していることがわかります。
 
 このことは、よく神社の由緒書きで目にする、『延喜式 (967年施行)』にも明文化されています。神社で扱われる思想や信仰は、自然崇拝や、土着神(古代の有力者などへ)の信仰だけでなく、ひじょうに複雑であることがわかります。また、神社で祀られている「天津神」や「国津神」などの神々についても、 第4章 日本神話と先住民族・隼人 で詳しく説明がされています。
  
 また、仏教の伝来はこれら呪術的な信仰の後から日本に入ってきます。鎌倉時代以降の仏教が浸透したのも、これらの思想を払拭する意味合いを含んでいます。しかし、残念なことに、日本人の言葉や習慣の中には、儒教や仏教に由来したものより、この自然崇拝的なアニミズム、シャーマニズムに近いものが根強く残っていることも事実です。そのような、原始的な思想の過ちを諌めながら、本書に記載されている史実をしっかりと理解した上で、差別意識撤廃への意識改革をしていかないといけないと考えています。

 あと、余談ではありますが、民話で祟りで寺が焼けたとかいう話がありますが、仏教には『祟り』の概念が無いため、仏を信仰の対象とする場所では、ありえない矛盾した出来事であることがわかります。この種のお話し自体が、仏教以前の思想から由来するたとえ話であり、「仏教の思想」と「古代神の持つ思想」の違いが理解できていない為、民間で創作され説話であることもわかります。
 
 また、このような民俗学寄りの研究は、近年、史学側からも進んでおり、網野先生の著作をはじめとした優れた研究結果が発表されていました。また、学術的な研究者以外にも、在野の研究者(塩見鮮一郎氏など)から綿密なフィールドワークに基づいた著作が発表されています。

 著者は、比較文明論を軸にしているので、東南アジアと古代日本の風習の関係性に精通しており、この点に関しても、一読の価値はあります。
 
 一つ欠点をあげるなら、 「弾左衛門制度」は史実ですが、「サンカ」に関しては完全なフィクションなので、同書のなかで言及してほしくなかったですね。
 
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