Thought

L’ajustement:作動配列?

P15 『美しい本は一種の外国語で書かれている。 ひとつひとつの語の下に私たちの一人一人は自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。 そのイメージは誤読[反対の意味]になることもある。 しかし、美しい本の中でつくり出される誤読はすべて美しいのだ』 Proust, Contre Sainte-Beuve, ed.Gallimard,P305.



 ジル・ドゥルーズ(以下GDと略す)の入門編、GD作品のなかでは一番読みやすい。
ディアローグ---ドゥルーズの思想 (河出文庫)ディアローグ---ドゥルーズの思想 (河出文庫)
(2011/12/03)
ジル ドゥルーズ、クレール パルネ 他

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2014.11.23
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Renaissance

一般社会はいずれもその中にいくつかの特定社会を含んでおり、一般社会の文明の程度が低ければ低いほど、その中の特定社会は一層自律的で、またその輪郭もそれだけはっきりしている。われわれのような近代社会においては、世俗的社会と宗教的社会つまり俗対聖という区分以外には、あまり明確なものは存在しない。ルネサンス以来これら二つの特定の社会の間の関係は、諸民族、諸国家においてありとあらゆる変遷をたどってきた。
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ルネサンスの神秘思想 (講談社学術文庫)ルネサンスの神秘思想 (講談社学術文庫)
(2012/02/10)
伊藤 博明

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 先日読み終えたイタリア・ルネサンス期思想史の総決算というべき一冊、ピーコ・デッラ・ミランドラ、ジョバンニ(Pico della Mirandola,Giovanni)を中心としている少々風変わりな一冊といえる。風変わりとはいっても、ルネサンス期の 神学に詳しい方々にとっては、一般的なのかもしれません。
  若干、自分の想像していた内容とは異なる(予備知識を持ち合わせていない)主旨だったので、少々、戸惑いながら読み終えることになってしまった。

 もともと、本書は、学術書として出版されているが、実際には微妙なところ。学術書としていながらも、占星術やオカルトを加えているので、どうしても違和感を感じざるを得ない。

 本来、ルネサンス期を描いた書籍と言えば、メディチ家を軸として、都市の発達や職人の技術革新、商人層の台頭などや、もしくは、古代ギリシャの異教文化を準えた芸術の浸透を描くことが多い。その後、少し遅れてルターを中心とした宗教改革でまとめるのが一般的なところである。
 しかし、本書に関しては、宗教改革には一切触れていない上に、メディチ家すら脇役程度にしか使っていない。あくまでも、(神秘)思想史を中心にしている。反対に、そこが本書の面白いところではある。ただ、自分が、神秘思想自体の体系や本質をよく理解していないことと、それに加えて、なじみのないルネサンス期の神学者が頻繁に登場することに少々困惑してしまったのが実情である。

 本書の展開においては、それらの神学者の登場は必然的である。それというのも、もともと、本書の底本・原本がイタリア・ルネサンス期における古代の「神々の再生」を主題としているためであり、それら異教の神々の解釈をプラトンというフィルターを通して解説・翻訳し世に広めたのがイタリア・ルネサンス期の神学者であったからである。(アウグスティヌスではなく?)また、本書は西洋観の底流にある一神教的なものに秘められた哲学的=宗教的シンクレティズム(諸説混淆)を主題に据えていることも題名から読み取れる。
 そのような理由で、本書は、教科書的な『文芸復興』とは異なり、ルネサンス期における古代ギリシャ・ローマの学芸の復興とは何を意味しているのかを問う、もう一歩踏み込んだ内容になっているといえる。 


 本書を紐とくことで、イタリア・ルネサンス期の代表的神学者、先述のピーコをはじめフィチーノや、クリュソロラス(神学者というより学者)達の功績が理解できる。ルネサンス期において、多数翻訳されている古代の作品が、彼ら神学者によるものだということわかる。 特に、フィチーノによるラテン語訳は、後の執筆にも影響を与えていることが想像できる。     

   本書の第3章では、特に、そのフィチーノを中心に取り上げている。異教哲学とキリスト教の仲介者として、“プラトン・アカデミー”の学頭で、コジモ・デ・メディチの庇護下にあったフィチーノは、当時、*『ヘルメス選書』をはじめとして、プラトンの全作品を翻訳し、『プラトン神学』など執筆活動も精力的におこなっている。本章では、そのフィチーノを中心に(ピーコを説明する伏線として)、イタリア・ルネサンス期独特のプラトン主義(Platonism)哲学とキリスト教神学の結合の経緯を説明をしている。
 ただ、ここで説明しているプラトン主義哲学とキリスト教神学の融合には、いくつかの問題がある。(<愛について>ギリシャ的エロースとキリスト教的アガペーの融合を表しているのだが) 実際には、イタリア・ルネサンス期のプラトン主義というのは、プラトンの思想から随分と離れてしまっている。
 そのかわり、これらイタリア・ルネサンス期に創作されたプラトンの思想?は、後の英米文学のなかに浸透しているようだ。

*因みにコジモが、初めてフィチーノに依頼した仕事が『ヘルメス選書』の翻訳らしい。 
 

少々、脱線してしまったが、
 換言すると、本書の前半は、異教である古代神学や哲学と、キリスト教神学との融合にいたる関係性、それらの翻訳、もしくは解説する仲介者として、もしくは、橋渡し役となるルネサンス期の神学者(フィチーノ、ピーコなど)の存在について説明することを主旨としている。しかしながら、プラトン・アカデミーをはじめとして、フィチーノらが率先したプラトン主義哲学とキリスト教神学の融合には、いずれにしても疑問がのこる。

 本書で述べられている疑問点も同じではある。
 もともと、古代ギリシア人のプラトンはオリュンポスの神々を信仰対象にしていたはずで、キリスト教およびヘブライ人の信仰を知る由もないはずである。仮にプラトンが、異教の地を巡回していたことを仮定してもこの二つを繋げるには無理がある。 
 それにも拘らず、『プラトン神学』のもとでこの二つ結合させてしまう。いま一つ腑に落ちないところである。ヘルメスがエジプトの地で先駆的にキリスト教の訓えを暗示していたというだけでは、根拠として乏しい説明である。イタリア・ルネサンス期にはこのような創作が多いように思われる。後述するが、ゲオルギオス・ゲミストスによるゾロアスターも同様である。      

  ともあれ、フィチーノらによる、そのような不可解な宗教的結合は、コジモからの要請なのか、アウグスティヌスの影響なのか、はたまた、プラトン贔屓の*ゲオルギオス・ゲミストスの影響なのか憶測の域を出ない。 残念ながら、本書では、このあたりの説明が明瞭ではない。但し、どのような意図があったにせよ、フィチーノはヘルメスとゾロアスターから始まり、オルフェウス~ピュタゴラスを介してプラトンに完成をみる<古代神学> の系譜を構想していたことは間違いないようだ。

 そのような系譜の説明として、第5章や第6章で同様の説明を展開している。
 古代神学の系譜の説明以外にも、特筆すべき点が多い。二つの記述は、第5章エジプトの誘惑のヘルメス・トリスメギストス~アスクレピオスに関する『ヘルメス文書』・『ヘルメス選書』の解説や、第6章古代神学と魔術において、ゾロアスターに関する『カルデア人の託宣』の記述で、ヘルメス(メルクリウス)やアスクレピオス、ゾロアスターの説明を行っている。この『ヘルメス文書』や『カルデア人の託宣』 はヘレニズム期特有のシンクレティズムを呈していて、東西の思想が交錯していることが手にとるようにわかり愉しめた。

 本書の巻末に記載されている(第7章・8章)占星術やカバラはユダヤ教からキリスト教が分離された時期紀元後2世紀に成立したもののようだ。当然、時期的にグノーシス主義の影響が色濃いのも頷ける。簡単にグノーシス主義と書いてしまったが、その定義も多岐におよんでおり、実際には、意見の分かれるところのようだ。ここでは、キリスト教から見た異教思想としてのグノーシス主義 としてとらえている。
 ちなみに「カバラ」はヘブライ語で「受け取ること」を意味しているそうである。「伝承」あるいは、「伝統の伝承」の意味があるそうだ。あくまでもユダヤ教の伝承形態を表しているようだ。 
 


 ここまでが本書の大筋ではある。異教との融合に対して寛容なヒエロニムス、アウグスティヌス、ディオニュシオス、フィチーノ、ピーコまでの流れは、ピーコ没後にサヴォナローラの神政政治により退けられることになる。

プラトンをプラトンのままに、アリストテレスをアリストテレスのままにさせよ、彼らをキリスト教徒にしてはならない


 後に火刑に処されるサヴォナローラのキリスト教的ラディカリズムというべき思想は、奇しくも、ピーコの甥にあたるジャンフランチェスコ・ピーコに引き継がれることになる。ここにも、16世紀の宗教改革~反宗教改革へつながる激動の時代の兆候が読み取れる。それはルネッサンス期に人々が、キリスト教などの宗教に対しても、自由で合理的判断を下すことができるようになったことの現れではないかと勝手に思い描いている。

  少々、長く書き連ねてしまったが、今回は、未知のルネサンス像を知ることができて有意義な読書となった。 かなり苦戦はしたが、副次的な収穫もいくつかあった。
①偽ゾロアスター像の創作者でもある、ゲオルギオス・ゲミストス 「プレトン」の人物像 
②フィチーノの翻訳・執筆書籍とその解釈の仕方
③プラトン主義と、イタリア・ルネサンス期キリスト教との関連性
④ゾロアスターのルネサンス期的解釈
⑤ヘルメス(=メルクリウス=トート) ⇒ アスクレピオス


 特に、ゾロアスターに関してはニーチェの『ツァラトゥストラ』と少なからずリンクしているように思われる。ルネサンス期にプレトンによって創作された偽ゾロアスター像に『ツァラトゥストラ』は少なからず影響を受けているのではないだろうか。 占星術≒カルデア人≒マグス(マゴス)=ゾロアスター

 
 



 

Phantasm,simulacre,and parody

ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)
ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫)
(2004/10/07)
ピエール・クロソウスキー

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 村井則夫著 『ニーチェ ― ツァラトゥストラの謎』 の参考文献にも「研究書」として紹介されていました。 
ニーチェ関連書籍としては 有名な一冊のようです。

 それに反して、クロソウスキー自身は、本書を偽りの研究書と述べております。 本書冒頭から

P10
 これは類まれな無知を示す書物である。以前から語られてきたことの総決算をおこなわずして、「ニーチェの思想」だけを語ることがどうしてできるだろう。それは一度ならず踏みしめられた道跡に、幾度となくたどられた足跡に、足を踏み入れる危険をおかすことではないか。すでに乗り越えられた問いのかずかずを軽率に問うことではないか。

 訳者の兼子氏の解説を要約すると以下のような具合です。

 本書においては、序文として紙幅はとっておりながらも、それらしい説明はされていない。
それに加えて、論文とは呼べないような、読み手を置き去りにする説明の羅列が多く、
さらに、引用文献 の出典も不明瞭とのこと。


 たしかに、ニーチェの作品の解釈の仕方、その作法(身ぶり)を中心に述べているのはわかる。
ただ、如何せん、その説明がムツカシイ。

  ニーチェ思想をわかりやすく解説することの不毛な努力を避けているだけなのか。
それとも、単に、われわれがニーチェ思想を、自分の為に、恣意的に解釈することを拒んでいるだけなのか。

 ニーチェ思想とは悪意に満ちた迷宮か?単なる道化か?

訳者兼子氏の言葉を借りるなら、
ニーチェ思想に一貫性を与えようとする誘惑に抗い、言葉に潜む同一性の罠へ抵抗すること、それこそが本書の「身ぶり」であるといえそうだ。

P95
思考する行為は受動的な行為であるということ。その受動性は言語の諸記号の固定性に基づいており、それらの記号のさまざまな組み合わせは、言語を沈黙においやるさまざまな身ぶり、さまざまな運動を模倣しているだけだということを。

 ニーチェを解釈するということは、 ニーチェ思想を利用しているだけなのだろうか。
本書は「ニーチェ思想」という深淵につながる開口部となりえるだろうか。
20130601

Image de la pensée

最近、著者自身が紹介していたので、
気にかかり入手。

『思想』NO.1051 NO.1057 に掲載されている 
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』 (1)・(2) ドゥルーズの難解(ある意味では曖昧)な表現・概念を、かなり分かりやすく説明していて、 「なるほど」と思わせるだけの説得力がありました。


以前に、同氏が出演していた某局の『ファイトクラブ』を題材にしたTV番組では、
あまり、(申し訳ないが、)印象に残るものはありませんでした。自分の興味が映画の方に偏りすぎていて
同氏の説明や解釈が身に入らなかったのが、正直な感想です。

しかし、この『ドゥルーズの哲学原理』 (1)・(2)  のような論述となると、
流石に専門分野であるだけに素晴らしい。また、國分氏は翻訳もこなされているので、
邦訳されたものを、さらに分かりやすく解説するようなことはお手の物といった感じがしますが、

講義などで、ドゥルーズをまとめる作業には、かなり苦労されたようだ。
専門家でも、ましてや、フランス語が堪能な新進気鋭の学者先生でも、
要約するのが大変なドゥルーズ。



以下は、
以前、2011.11.14 に書いた当ブログの修正記事。

当方のブログのタイトルの一部である
デテリトリアリザシオンとは、『脱属領化』と言う意味です。
脱属領化とは、文字通り、自分のテリトリーを離れると言うことらしいです。

転じて、広義においては、
ある秩序から離れたり、その秩序や概念を破壊する 
意味合いも含んでいます。

異教徒と闘う十字軍が自ら領地を離れる様子になぞられる概念でもあるようです。


この言葉、乃し、概念は、
フランスの思想家ジル・ドゥルーズのことばから拝借しました。
ドゥルーズが追及したのは、「分裂症的な絶対的脱属領化」であったようですが、
私はあくまでも、「消極的脱属領化」の意味でタイトルに使用しています。


このドゥルーズですが、
哲学者だという方もいらっしゃるとおもいますが、
(明確な根拠があるわけではありませんが)私は思想家として捉えています。
まぁ、どちらの肩書でもいいのですが。

先述の國分氏の論文のなかでも、
ドゥルーズの論述方法は、本来あるべき、
哲学の手法と 少し異なるというようなことも書かれていました。
それが、ドゥルーズの良さでもあるみたいです。
 
 

ドゥルーズ―生成変化のサブマリン (哲学の現代を読む 2)ドゥルーズ―生成変化のサブマリン (哲学の現代を読む 2)
(2005/12)
松本 潤一郎、大山 載吉 他

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先述の
「ドゥルーズの~」(3)・(4)を入手するまでの間は、↑ この本で周辺知識を固めておこう考えています。 



定義における『哲学』とは、
生活上『役に立たないもの』とされています。
『役に立つもの』は哲学ではなく、それ以外のものであるといえます。

役に立たないからこその意義、面白さを読書から享受しつくそうとおもいます。

それくらいの余暇、時間の余裕があってもいいだろうと考えています。

"ἐποχή ” epokhế


『呪われた部分 有用性の限界』  
La Part Maudite  La Limite de  L'utile
Georges BATAILLE GALLIMARD1976     中山元 訳 
 この著者は、怖ろしい人物です。 完全な狂人です。 


 

  博識ですが、とんでもない狂人です。構造主義以降の思想家連中に拾い上げられたみたいですね。
フーコーデリダドゥルーズのような人たちが見出したなら、まぁ、仕方がないですね同類みたいなものなので。
 
 それよりも権威主義のハイデガーが、何故それほど、バタイユを絶賛しているのか疑問です。まぁハイデガー自体が簡単に権力に靡いてしまう人物なので、たいしたことありませんが、その点、バタイユは主張を曲げませんね~、怖ろしいくらいに自分の思想に忠実です。  
 
 その思想に忠実な彼の狂気炸裂のエピソードですが、自分自身を生贄として捧げたいとアセファル(オカルトサークルみたいなもの)の仲間に本気で頼んだらしいです。おそらく、「体を切り刻んでくれ」とか、「心臓を抉り取ってくれ」だとかを頼んだのではないでしょうか。それは、仲間もいやがって止めるわなぁ~。

 脱線してしまいましたが、
 とはいえ、本書『呪われた部分 有用性の限界』はバタイユの作品にしては上品な方です。
「眼球譚」「大腸肛門」などの小説に比べれば、雲泥の差があります。この2作品を読んだ人は辟易としていることでしょうね。まぁ、彼の当時の精神状態を考えると仕方ない作品ですね。わたしも、こわいもの見たさで、同2作品を某所で拾い読みしようと思いましたが、読後の嫌悪感と、作品の内容が想像できたので途中でやめました。しかし、出版社もよく出版する気になったなぁとおもいます。

 
 バタイユの予備知識と人物像の紹介はコレくらいにして、本題に入ります。
   
 
呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)
 
  

 
 個人的な主観に基づく、
本書:La Part Maudite 
呪われた部分  La Limite de  L'utile 有用性の限界
キーワード 
供犠と「太陽」、 自己の贈与」、
過剰なものの浪費」、 栄誉・栄光」とそれに対立する「有用性」の6つになるのではないかと考えています。そのなかでも、「供犠」の概念が主軸であると考えています。すこし、思うところがありまして、これらの詳細についての記載を控えます。

 
La Part Maudite  La Limite de L'utile
Georges BATAILLE GALLIMARD1976     中山元 訳

 
La Part Maudite (precede de La Notion de Depense)La Part Maudite (precede de La Notion de Depense)
(1967/01/01)
Georges Bataille

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  本書を読み始めた理由の一つは、

 この題名から古典派・新古典派経済学(現代の経済学思想の主流)への批判、反駁の材料に使えないかと考えたことが発端です。 バタイユの言葉をかりるとすれば、普遍経済学から制約された経済学への批判になるのでしょうか。
 つまり、拾い読みする程度の扱いにしていた本ということです。しかし、考えが甘かったようですね。簡単に扱える本ではないことに気がつき、精読に切り替えました。精読するほどの本かな?と、ときおり自問自答しておりましたが。
   
  このバタイユの著述は、良く言うと、文学的表現が多彩です。悪く言うと、論旨が錯綜して、整合性を欠いています。そのため、基礎知識がないと理解しにくいかもしれません。バタイユの著作全般にいえることのようですが、とにかく意図していることがわかり難い。ただ、本書に関しては、後半に著者の草稿、原案があるのでそれがガイド役にはなります。それでも、わかりにくいですが。

例えばコレです。
P86
・・・・・・獲得は、手にいれたものを失うことを「目的」としている。喪失について、功利主義的な説明をするのは、余計なことだろう。喪失が生という意味をもっていること、閉じた富裕化のシステムが不毛となったときには、喪失が豊穣なものとなることが多いのはたしかだ。しかしこの喪失による豊穣さは、それ自体が「目的」ではない。この喪失によって、新たな喪失が可能となることに、この喪失の根拠を、「目的」をみいだすべきなのだ。人間の生は、星辰の輝きのようなものとして生きられる。根底においては人間の生は、この光輝のほかに目的をもたない。その栄誉にこそ、究極の意味があるのだ。

 文章表現としては、綺麗だとおもいます。
「獲得」とは獲得するまでのプロセスの喪失であり、「喪失」から湧出する苦悩や怖れが、主体(苦悩している各個人)のなかに惹起させるもの、それ自体に究極の意味があるといっているのだとは思いますが、とにかくわかり難い。わたしの説明もかなりわかりにくいですね。



 また、世間一般でいう「栄誉ある行動」というと、救出活動とか慈善活動だとかを思い描きますが、
狂人バタイユの場合は、全く異なる行動を指し示しています。

P80
「利益を追求する人間」の社会は、栄誉ある行動に対立するものだった。

 「有用性」と「栄誉」との対立をあらわしていますが、栄誉ある行動に関しては、かなりグロイ事例を挙げています。

P81
アステカの商人の「栄誉ある行動」について語ってきたことは、西洋の非人間的な文明が依拠している有用性の原則に、異議を申し立てるものである。

 ここに書かれている「栄誉ある行動」というのは、西洋文明からは道義や理性に反した行動や習俗全般をさしています。本書のこの第2章非生産的な浪費での例は『カニバリズム 食人習俗』と『蕩尽 ―いわゆる破産するほどの浪費』のことです。狂人バタイユにとっては、西洋文明のほうが非人間的であるということです。食人習俗の方が人間的ということ?らしいです。
 
 見聞きするに耐えない「食人習俗」などの醜悪なものは、得てして、衆目を集めるものです。それは恐怖や嫌悪感が人に「なにかわからないもの」を喚起させるからなのかもしれません。「醜悪なものや俗悪なもの、もしくは恐怖」(客体)が各個人(主体)の内奥になにを呼び覚ますのかは、よくわかりませんが、バタイユはこの内奥に生成する「なにかわからないもの」に執着していたようです。

 バタイユは、西洋的(道徳、常識、品位、理性などを包摂する合理主義的)価値観を「気持ち悪いくらい」徹底的に否定(ある意味では、ニーチェよりも厳しい否定)することを貫いた人物ですので、彼にとってカニバリズムごときは普通の聖なる習俗ぐらいに感じていたのではないでしょうか。かなり、悪趣味ともいえますが、その醜悪なもの(もしくは俗悪なもの)に撞着させたのは彼独特の神秘主義思想と彼の生い立ちだったのではないかと考えています。

P45-46 
 何の役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかしわたしたちに役立つものとは、手段にすぎないものだ。有用性は獲得にかかわる。 ― 製品の増大か、製品を製造する手段の増大にかかわるのである。有用性は、非生産的な浪費に対立する。人間が功利主義の道徳を認める限りにおいて、天は天のうちにだけで閉じていると言わざるをえない。こうした人間は詩を知らないし、栄誉を知らない。こうした人間から見ると太陽はカロリー源にすぎないのだ。

 「こうした人間は詩を知らない~」  この点においては、自分も、詩心も詩の素養もない人間なので、こちら側に属するのかもしれません。
 彼のような思想家に『栄誉を知らない』といわれたとしたら、まぁ、黙って頷くしかないですね。しかし、彼の言う栄誉もかなり常軌を逸脱していますので知らなくて結構ですといいたいぐらいです。 

 


 しかし、この狂人バタイユは、ただの悪趣味な知識人ではなかったようです。
若くして市立図書館長に任命されるなど、優秀でインテレクチュアルな人物であったことはまちがいないです。

それは、本書の中でもうかがい知ることができます。
わたしが気がついただけでも、
モースの贈与論
レヴィストロースの未開社会・神話
ベルクソンの「笑い」
サルトルのアンガージュマン
ニーチェの思想「ツァラトゥストラ」「権力(力能)への意志」、ヘーゲルの哲学 らしきもの、
マルクス経済学的な思想など、ありとあらゆる思想が含まれています。

とくに、第6章戦争に記載されている
ユンガーに関しては、本書で始めて知った著述家でした。

しかしながら、1冊に詰め込みすぎですね。

思想のごった煮的書籍になっています。
かえって、バタイユの著作が好きな人にとっては、
反対にそれがいいのかもしれません。   



ところで、 
タイトルの“エポケー”ですが、
これはフッサールの現象学でつかわれる言葉で、
古代ギリシャ語でとまるとか、停止するとかの意味です。
われわれの有する、ごくふつうの世界像・世界観の判断を停止するということです。
ごく普通の世界像の中にも自分が気がつかないうちに入り込んだ憶見(ドクサ)があるので、
これを取り除くために、一旦、判断を停止し、正確な世界観を再認識しようという現象学的還元方法です。 
 
   

苦は、あるいは、デテリトリアリザシオン

絵は、ウィキペディアからの借り物です。
 

Bosch-detail.jpg

Artist Hieronymus Bosch (circa 1450(1450)–1516)
Title The Garden of Earthly Delights.
Alternative names Jheronimus Bosch, Jheronimus van Aken,
Jheronimus van Aeken, Jheronimus Anthonissoen van Aken
Description Southern Netherlandish painter and draughtsman


Date of birth/death circa 1450(1450) 9 August 1516(1516-08-09) (buried)
Location of birth/death 's-Hertogenbosch (?) 's-Hertogenbosch
Work period from 1480(1480) until 1516(1516)
Work location 's-Hertogenbosch
Authority control VIAF: 76401424 | LCCN: n79004071 | PND: 11851380X | WorldCat | WP-Person 



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