Quotation

Untergehen


― 彼はみずからこのことがわかっていたのであろうか、あらゆる自己欺瞞者のうちの最も賢明なこの者は?彼の死への気力という知恵のうちで、彼は最後にこのことをおのれに言ったのであろうか?・・・ソクラテスは死ぬことを欲していた、― 彼に毒杯をあたえたのは、アテナイではなく、彼自身であったのであり、彼はアテナイが毒杯をあたえざるをえないようにさせたのである・・・「ソクラテスは医者ではない」と、彼は声をひそめておのれに言った、「死だけがこの場合医者なのだ・・・ソクラテス自身は長いこと病気であったにすぎない・・・」(原佑訳)
(Nietzsche,1889,p.37)
  Nietzsche, F.W.(1889).Götzendämmerung,


 新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドによる古代的主題の代表的作例のひとつ『ソクラテスの死』。当時の美術愛好家トリュデーヌ・ド・ラ・サブリエールの依頼により1787年に制作され、同年のサロン出品時には大きな反響を呼んだ本作は、古代ギリシアにおける最も著名な哲学者のひとり≪ソクラテス≫が異神信仰を広め人々を堕落させたとの告発により、自身で弁明を試みるものの有罪は覆らず服毒自殺を命じられ、最後には毒人参の杯に口をつけ自ら命を絶ったとされる、弟子プラトンが綴った対話集などに記される有名な逸話≪ソクラテスの死≫を主題とした作品である。画面中央には弟子や牢番などソクラテスの支持者に囲まれながら魂の不滅についての演説を終え、今まさに毒杯を手にせんとするソクラテスが配されており、その天を指差す姿態は、宗教画における救世主の到来と悔悛を促す姿を容易に連想させる(※例:レオナルド・ダ・ヴィンチ作『洗礼者聖ヨハネ』)。また画面左側には目頭を押さえ悔し涙を隠しつつソクラテスへ毒杯を手渡す牢番と、ソクラテスに背を向け瞑想するプラトンが前景に配され、後景にはソクラテス自身が送り出したとされる縁者が部屋を出てゆく姿が描き込まれている。また画面右側には死を目の前にして冷静なソクラテスとは対照的に感情のままに師との別れを悲しむクリトンなど弟子らの姿が配されている。本作の主題選定に関しては様々に意見が出されているも、現在では当時の指導者らが犯していた不正に対する批判的精神が込められていると解釈される傾向にある。また逃亡し生き長らえるよりも、理想と信念のための崇高な死を選択したソクラテスの姿には、後のフランス古典主義における英雄的表現への展開の側面を見出すことができる。 
 


Σωκράτης

Mort de Socrate)1787年
129.5×196.2cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館
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Tehom

 自分のブログで読書に関する随想文をUPするようになって以来、頻繁にお邪魔している読書ブログが数件あります。

 その数名の方たちの読書ブログでは、当然ではありますが、「本」、つまり「読書」にまつわる記事が掲載されています。これがまた興味深い。それというのも、著名人の書評はべつとして、世間一般の読書家さんたちの(販売目的ではない)純粋な読後感想・書評や読書歴といったものには、なかなか触れる機会がなかったからかもしれません。
 
 そのような純粋な読書家の一人で、シュタイナーの思想を中心に、諸々の哲学に通じているhasutamaさんのバタイユに関する記事を引用させていただきました。すこし、略させていただいてます。


バタイユさん 「宗教の理論」からの hasutama NOTE
不可能性の原則は、どんな哲学をも限界付けている
哲学は、はじめから、ある一つの分解できないような要請に応えている
哲学が喚起する問いに対する応答と独立して「存在する」ことは出来ない
哲学の応えは、哲学的な作業や探索の結果ではありえず次のことを所与のものとして前提としている

・個人的な立場を重んじないこと
・思想が運動性に富むこと
・すべての運動に思想が開かれ、可動的であること

自己満足せず未完了であることが、応えに結びつけられている

というか、むしろそれが応えと同質で不可分である
思想の移動する領域を、科学者が行うように、枠付けられた範囲に限定しなければ、獲得された認識を十全に同化し、吸収するのは不可能である

このことは思想の本質的な未完了に、事実として避けようのない未完了を付け加える
個人の思想というものはあり得ず 思想の実践的営為は、個人的なパースペクティブを拒むこと以外の出口を持つこともあり得ない 未完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける

↑今のところバタイユ氏に対し、たいへん共感しています
彼は面白い人です 
渦巻きの先の世界でいっしょに遊ぶ仲間を見つけたような気持ちです

追記

考えてみたいのは最後の
完了は、応えに「不可能なことの叫び」という真実を授ける

応える

叫ぶ

授ける

の主語は?

なぜ「叫ぶ」必要があるのか?




 引用させていただいた理由の一つは、hasutamaさんの
深い洞察力と簡潔な言葉による『問いかけ』にあります。この記事もそうですが、毎回、考えさせられます。たしかに哲学的『問い』には『答え』はありません。考え続けるのみです。

 もう一つの理由に下に掲載した書籍との関連性です。
つまり、G.バタイユとニーチェの関係性です。バタイユとニーチェの二人には、直接的な徒弟関係はありませんが、G.バタイユあたりは、本書『道徳の系譜』からかなり影響を受けているのではないか?と考えています。もともと、「ニーチェの思想」を辿っていることがバタイユの著作の特徴のひとつではあります。わたしの関心もこの点に集約しておりますが、実際には、あまり似ていないのではないかとも考えています。バタイユの場合、ニーチェの思想以外にも、読みどころが多いです。少し疲れますが、読んでおいて損はないと考えています。(個人的には、小説はスルーする予定です)
 「ニーチェの思想」に対する、バタイユの踏襲がゆるされるのは、ニーチェのそのアイデアを更に発展させてもう少しバタイユ(オカルト)的な雰囲気をオリジナルなものとして強調しているからかもしれません。また、ニーチェ以外の思想(ニーチェ以降の思想)が交錯しているので、ニーチェの思想とは全く違うものとして読むこともできます。 
 ただ、ニーチェもバタイユも、読んでいる人は少なそうですが。


P112
  怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである。
 
「善悪の彼岸」 箴言と間奏曲 146 新潮文庫 竹山道雄 訳


P111
 諸君はこの深淵を余り長く覗き込むことを自ら固く戒めなければならない。疑いもなく、ここには病気がある。これまで人間のうちに荒れ狂ってきた最も恐るべき病気がある。 ―そして拷苦と背理とのこの夜のうちに、愛の叫びが、最も憧憬的な狂喜の叫びが、愛における救いの叫びが響き渡っていたのをなお聞くことのできる者は(だが、今日われわれはもはやそれを聞き取る耳を持たないのだ!―)、打ち克ちがたい戦慄に囚えられて面を背ける・・・・・・ 人間のうちにはこれほど多くの愕くべきものがあるのだ!・・・・・・ 地上はすでに余りに長い間癪狂院であったのだ!・・・・・・

「道徳の系譜」 岩波文庫33-639-4 木場深定 訳




  道徳の系譜 (岩波文庫)  



 本書は、もともと、ニーチェが『善悪の彼岸』の補説書として出版されたものです。ある意味ニーチェ思想の全体像をあらわしているともいえます。ニーチェ自身の説明では入門書とのことです。

 本書にも書かれていますが、出版方法は「男爵ばりの遣り方で」 = すなわち著者の自費で出版されたものです。自著の解説をかねて自費で出版とは、これもまた、ニーチェらしいです。
 また、本書で興味深いのは、『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』を読み解くヒントのようなものまで、散りばめられている点にあります。
 ニーチェらしいロジックの展開も目白押しですし、この著作執筆時は、まだ、精神疾患がひどくなる以前の作品ですので混乱をきたす表現はありません。本書は3つの論文 (  これ論文?)で構成されています。

第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」
第二論文 「負い目」・「良心の疚しさ」・その他
第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

論文とはいえ、相変わらずの論調です。

ニーチェが表現している

「怪物」とはなにか?「深淵」とはなにか?

Untergehen

深淵(しんえん): 深い淵や水の深く淀んだ場所を指す語。英語のabyssに対応する。 新共同訳聖書では創世記に登場する単語テホム(en:Tehom)の訳語として用いられている。

フレッド・ゲティングズ著『悪魔の辞典』によると、悪魔学においては「進化の終着点」を意味し、すなわち人間の行き着く最後の未来を意味する。これから連想が進み、ヨハネの黙示録のアバドンといったイメージになった。カバラの学者は深淵をマサク・マヴディルと表現し、落伍者の行き着く場所と解釈している。



P7-8 序言
 われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない。それはそのはずである。われわれは決してわれわれを探し求めたことがないのだ。 ―― われわれがいつかはわれわれを見出すであろうなどと、そんなことがどうして起こるというのか。
                       ~中略~
 われわれはいつまでもわれわれ自身にとって必然に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。われわれはわれわれを取り違えざるをえない。われわれに対しては「各人は各自に最も遠いものである」という格言が永遠に当てはまる。―― われわれに対しては、われわれは決して「認識者」ではないのだ・・・・・・

 「道徳の系譜」 岩波文庫33-639-4 木場深定 訳


The Myth of Sisyphus

人生の意味とは?
永劫回帰か?果てしない徒労か?
 
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Sisyphus by Franz von Stuck, 1920.


O my soul, do not aspire to immortal life, but exhaust the limits of the possible
― PINDAR, Pythian iii

Translated from the French by
JUSTIN O'BRIEN

 ああ 私の魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、可能なものの領域を汲みつくせ。


ピンダロス『ビュテイア祝捷歌第三』
清水徹 訳



 哲学的な「知」ではなく、従来の知識“Knowledge”ですら、生きている間にどこまで汲みつくせるのか?
 自分に問いながら、読書を進めている次第です。自分の愚鈍さとの闘いが、果てしない徒労か否か。
 もう一度!

Gott ist tot!

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ニーチェ引用文“洞窟の比喩”に対する、もしくは、形而上学にたいする警鐘ともいえます。
由緒ある牧師の子として生まれ、神学の道を歩みながらこの言葉を残した人物
ニーチェ
神に対しても、仏(仏陀) に対しても遠慮はありません。
私自身は、キリスト教に偏見はありませんので 、誤解の無いようにおねがいします。

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
(1993/07)
フリードリッヒ ニーチェ

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第3書 108
P199
 新しい闘い。 ― 仏陀の死んだ後も、なお幾世紀もの永いあいだにわたり、ある洞窟の中に彼の影がみられた ― 巨大な怖るべき影が。神は死んだ、― けれど人類の持ち前の然らしめるところ、おそらくなお幾千年の久しきにわたり、神の影の指し示されるもろもろの洞窟が存在するであろう。 ― そしてわれわれ ― われわれはさらにまた神の影を克服しなければならない!

『悦ばしき知識』 F.ニーチェ 信太正三 訳

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