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Utilitarian ⇒ incarnation 

功利主義者の読書術 (新潮文庫)
功利主義者の読書術 (新潮文庫)
(2012/03/28)
佐藤 優

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以前、某ブロガ―さんが紹介しており、文庫版を興味本位で立読み。

単なる読書術なのか?と疑いつつも内容を確認。
実際には、読書術というよりも、佐藤氏の書評集といった感じが強い。
しかしながら、そこは、元外務省官僚 、単なる書評で終わらない。
マルクス「資本論」から「新約聖書」 まで、佐藤流読解術の紹介、
著者の読書量もさることながら、本の選択とその人生経験反映した読み解き方は風変わりで興味深い。 

少しばかり、ミスマッチな本の選択もあるような気もしますが、そのあたりは、きっちり、論理的整合性を保っています。
新自由主義と「うずまき」をセットにした説明は圧巻。本書冒頭のマルクス「資本論」が伏線のように思えるぐらい でした。

佐藤優氏は(組織)神学を専攻していたこともあり、神学をはじめとして、(外務官僚時代の経験から)ロシア圏の文化にも精通しております。それらを背景として圧倒的な教養・経験を本書では披瀝しております。

確かに、共感できるかどうかは別として、考えさせられる書評といえそうです。
資本主義というより、「経済」に関する論考は、新自由主義・市場原理主義への問題提起中心でした。 このあたりは普通かな。
マル経(マルクス経済学)を持ちだすかと思いきや、「資本論」でとどめるあたりは経済に関しても詳しい様子。
「エコノミスト」にも書評を掲載するくらいだから当然かもしれません。

しかし、マルクスから始める書評というのもなぁ。

個人的には、「カラ兄」と「The Long Goodbye」を新訳で読んでみたいと思います。
あと、読みたいと思うような本は、ハーバーマスくらいかな。





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Noblesse oblige

 平等と効率がトレードオフの関係にあるのと、同様に、自由と平等は並立しない。

 この関係性はいたってシンプルである。自由を認める以上、自由競争の原理原則から逃れることはできない。「競争のない世界=平等な世界」のように考えると、当然のことながら、そこには、自由は存在しない。

 自由を成り立たせるうえで、「機会の平等」だけは侵犯してはならない領域である。この領域を無防備にしてしまうと、格差社会が生じることは疑いない。とくに、少子高齢化がすすむとその傾向は顕著になることが予測される。

 noblesse oblige 恵まれない人たちのために高貴な行動がとれるのか否か。個人の自由を制限してでも利他行動がとれるか否か?
 
ガルブレイスの警告も空しく、アメリカの「満ち足りた」人々は、自由を優先した。

広告よけ記事でした。

Uber den Buddhismus

 ここ数年、再版されていなかったちくま学芸文庫のニーチェ全集が次々に版を重ねているようで在り難いことです。この機会に再版された書籍は全て買い揃える予定です。本当は、白水社で揃えたいのですが、高価なので暫し見合わせています。
 
 しかし、何故、突然、ニーチェの作品が再版され始めたのか?
 
 それは、例の超訳本が巷で流行っているからなのでしょうか。

 ある方も紹介されておりましたが、本来のニーチェの言葉は辛辣で鋭く、重いものが多く、考えさせられることがあっても、「元気付けられる」ということはあまり無いような気がします。超訳本の読者の皆さんには、是非、本来のニーチェの翻訳書籍を読んでいただきたいとおもいますね。本来の翻訳作品には、ブクログの書評を見る限り「元気付けられた」、「清々しい」などのコメントは見受けられなかったような気がしますので。
 
 閑話休題
 
本書を書店で軽く立ち読みし、購入する前に、図書館で借りてきました。この本は、「買い」ですね 。素晴らしいです。
  
ニヒリズムと無―ショーペンハウアー/ニーチェとインド思想の間文化的解明
(2004/12)
橋本 智津子

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  本書のなかには、その筋の文献が満載です。自分は調べものに関しては、かなり、しつこいほうでしてニーチェに関しては思い立ってから〇〇年以上経過しています。
 本書の主体は「ショーペンハウアーとニーチェ」の東洋思想との関連性です。まだ、少ししか読んでいませんが、かなり気にいりました。 購入して蔵書に加えること間違いないです。 
 ここから手繰るとまた、枝分かれしていろいろな本にあたりそうです。そのような愉しみもある作品です。文献学的著作ですので、ニーチェやショーペンハウアーに興味のある方(少数の愛好家)には良いと思います。

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本書とは、別の文献
 湯田豊先生の「ツァラトゥストラからのメッセージ」という文献に、以下の内容が取りあげられていました。
 
 ニーチェの遺稿の中には、 Zara-thustra ツァラトゥストラ は、サンスクリット語法の一つであり、Iti vuttakam 「聖者はこのように語った」 を真似て作ったと書かれたノートがあったそうです。
 しかし、この言葉と語法変化はサンスクリットではなく、パーリ語であったようでして、(パーリ語?) ニーチェが間違えて記述をしているのか、(あるいは、ニーチェの釣り針がしかけてあるのか)は不明です。
 このIti vuttakamは「このように言われた」という意味のパーリ語です。変化としては、下記の2点があるそうです。Ity vktamは「仏陀の言説」を扱うパーリ語教典の書名、Ity vuttakamには「仏陀はこのようにいわれた」の意があります。 つまり、「ツァラトゥストラ」という作品自体が仏陀のキャラクターをも包含して著述されていたことになります。
 
 余談ではありますが、Zara 金の Thustra 星つまり、ツァラトゥストラが“金の星”の解釈もあるとしています。


 
 この内容の、全てを鵜呑みにしているわけではありませんが、なかなか興味深い省察だとおもいました。そのような経緯を経て、本書 「ニヒリズムと無」 にたどり着きました。本書では、ショーペンハウアーと ニーチェが「仏教として引用した文献」が、どのような仏教思想の文献かを調べているようです。網羅されている文献の層もあつく、信憑性の高い作品であると思われます。読了したのちにUpしたいと思っています。

Force

 先日、ジョルジュ・バタイユについての記事を記載したのですが、
↓ この人の歌詞は、なぜか、バタイユを彷彿とさせます。

 十代の頃は、洋楽しか聴きませんでしたが、邦楽にもおもしろいアーティストがいますね。
毎回、このかたの歌詞に驚かされていました。若いのにたいしたものです。 いろいろ読まれているのがわかります。
バックの演奏も怖ろしく上手い。ライブにもかかわらず、スタジオテイクなみの完璧さです。 

事変Ver. かなり、アレンジしてあるので、
原曲のイメージとは随分ちがいますね。
http://www.youtube.com/watch?v=a2ITYA7yJag&feature=relmfu

コノ曲なんかは、「呪われた部分」 の“余剰”からヒントを得たのではないでしょうか?
関係ないか。
http://www.youtube.com/watch?v=iJ_COnXsfpU

林檎女史の作品でした。


 前回UPした、「呪われた部分 有用性の限界」の理解?読解?にはかなり苦しみました。
読み終えるまでに、自分の予測していた以上の時間がかかってしまいました。そのときに、多少の時間差はありましたが、同時進行で併読していたのが
この本です。種本です。 



P220
文学は無垢ではない。そして最終的に自分を有罪だと認めねばならないのだ。

 この一文は、「地下室の手記」で引用した一文とよく似ています。バタイユらしい表現です。
後述するボードレールに関する一文に共通するものがあります。



バタイユ入門 (ちくま新書081)
(1996/09) 酒井 健 

目次
第1章: 信仰と棄教(生涯と作品
ベル・エポックと父親 ほか)

第2章: 聖なるものと政治(スペインからシュルレアリスムへ
『ドキュマン』時代の試み―低い唯物論 ほか)

第3章: 極限へ(「力への意志」から「好運への意志」へ
「非―知の哲学」 ほか)

第4章: 明晰性の時代(冷戦構造と核戦争―政治・経済の問題
文学の至高性 ほか)

 この新書は驚くほど読みやすい。バタイユの著作と並行して読んでいたからかもしれませんが、素晴らしくわかり易い内容です。酒井氏に感謝です。
 
 それにしても、バタイユの著作は、何故そんなにわかり難いのか?
どうも、意図的に文章をくずして、真意をわかりにくくしているからのようです。真意を伝わりにくい状態にして、文章の持つ権威化を避けていたようです。別の言い方をすると、価値観を固定化されないように、流動する価値定立を目指して文体を崩していたようなのです。その方法論はシュルレアリスム主流派の方法に似ていると本書にも書かれています。

 わたしは、ニーチェつながりでバタイユの書籍にあたりをつけましたが、実際には、あまり繋がりがあるとは思えません。個人的な感想としては、ニーチェの方が繊細な感じがします。
 しかし、どうしてこうも、フランスの思想家はニーチェを論じるのに、『力への意志(権力への意志)』からの引用を用いるのか?不思議でしかたがありません。ナチスに利用されたからなのか?詳細はわかりかねますが。
 本書にも記載されている通り、この『力への意志(権力への意志)』はニーチェの妹エリザベートが勝手に編纂した偽書で、ニーチェ本人の意思が反映されているとはいい難い書籍なのです。それを理解したうえで引用するのは、どうかと思われます。 
 

 それに反して、著者の酒井氏が、ニーチェの思想に関して述べた次の一文は的確です。流石です。
P191
 ニーチェは、一つの不動の価値観に依拠して何かを批判したり肯定したりしていたのではない。彼の価値観はつねに流動していた。ニーチェには、永続的な信仰の対象となりうるような絶対的な善などありはしなかった。『善悪の彼岸』にある彼の有名な定式はこうだ。
「すべてはゆるされている。真なるものは何もない」。

 私も、アンビバレント(両義的)で、流動的な価値観こそ、ニーチェの持つ思想の一面だとずっと考えていました。それらの思想をデフォルメしたり、固定化したのが、フランスの思想家や、ハイデガーらのドイツの権威主義者です。わたしからすると、バタイユもデフォルメ派の一人であると考えています。その手法はかなり風変わりではあります。
 

 話しは、ニーチェ→バタイユの系譜からそれますが、
 サルトルが批判したデカダンの徒ボードレールですが、バタイユは、このボードレールを擁護してサルトルの批評に反論をします。これがまた、バタイユの観点が興味深い。

P226-227
 サルトルからすれば、ボードレールの苦悩は欺瞞にすぎない。なぜならば、サルトルの見るところボードレールは、大人の既成の善(=「行動」の目標)を新たな善に変えようともせず、この既成の善を不動のものと設定してそれとの対比で自分を悪として断罪し悩んでいたからだ。
 バタイユは違う見方をする。ボードレールは、どのような善であれ、善との「行動」の関係のなかに自分を固定することができなかったから、換言すれば詩の対象にどこまでも忠実であったから、つまり世界のなかにも自分のなかにもある無限定の子供らしさ、固定的なものを絶えず否定する子供らしさにどこまでも忠実であったから、自己への断罪を繰り返して苦悩していた。バタイユはこのようにボードレールを捉え、そしてその自己への断罪に人間自身への深い愛を見ようとする。

 どうでしょうか?ボードレールに関する知識が無い自分には、この観点が正しいのか誤っているのかは判断しかねます。
しかし、批評家としてのバタイユはかなり鋭い感性を持っていることが、他の著作家に関する批評からも読み取れるので、全くの見当違いではないような気がします。
 また、バタイユは ↓ このような言葉を残しています。

P127
「人間は、自分を断罪するのでなければ、自分を徹底的に愛することはできない」。

 キリスト教を棄教しながらも、どこか、その郷愁を抱いている感じがします。
  
 とはいえ、批評家としては鋭い感性をもっていますが、人間としては異常なひとです。酒井氏も述べていますが、人間性はクズ以下です。何となく、ディオニュソスをイメージしたパフォーマンスのようにもおもえますが。その真相はよくわかりません。
 とりあえず、バタイユの他の著作には、時間を置いてから挑戦しようかと考えています。疲れますので。

Chrematistike’

見えざる『神の手』 
その手を是非、見せていただきたいものです。


 
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 思想や方法論は、わたしとは異なりますが、“高い志の”ある方の新たなる出発に際して、下記の新書を再度、読み返し記事として残すことにしました。


金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)
(2008/04/22)
本山 美彦

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 3~4年前に出版された新書です。 
サブプライショックの原因を形成したのは、金融商品の数理モデルを開発した“クォンツquantitative analyst ではない、 実行犯 “ヘッジファンド” である。 
 経済がギャンブル化した元凶であり、リスクがヘッジングできるという幻想を植えつけたペテン集団であり、ドイツ政府が “イナゴの群れの襲来” と警戒を発表したほどです。 ある意味で、近代の経済活動(金融ゲーム)は、一種のペテンです。

P51
 経世済民を目標とする昔の経済学は、金融論を金儲けの術としては見なかった。企業も、人に雇用を与えることを最大目標として組織されていた。金融も、仕入れ・生産・販売という企業の全活動を円滑に進行させることを課題としていた。企業が活動する上で資金が枯渇しないように、社会的に金融を再配分する形で、遊休資金を必要な企業に融資するのが金融の目指す機能であった。
  
 本来、経済は、『経世済民』、つまり、社会を導いて民を救済する。これが『経済』の本義です。民の幸福を忘れて経済はない。 返済能力のないマイノリティーにローンを抱かせて金融商品化する。これが近代の市場主義経済の本性かと?数年前は憤りすら感じておりました。
 
 わたしが、現代のギャンブルの申し子“ヘッジファンド”をペテン集団と表現した理由は、利潤追求のその姿勢にあります。 どの企業も利潤は追求しますが、かれらの倫理観は皆無に等しい。

P48-49 
 労せずして大金をつかみたいという人間の欲望が「賭」(ギャンブル)を生み出す。
 その究極の姿が、金融ゲームである。それは、国家をも破産させるとてつもない暴力をふるう。
                       ~中略~
 ギャンブルは、完全なゼロ・サム・ゲームである。つまり、一人の勝者が多数の敗者の犠牲の上に利得を貪る。そして、敗者は没落する。
                     ~中略~
 ただ、ギャンブル場で営まれるギャンブルは、このゲームに参加する人たちだけが影響を受ける。ギャンブル場で勝者が出ようと、敗者が没落してしまおうと、ギャンブル場の外の世界にいる人々は、何ら利益も受けないかわりに、少なくとも被害を被ることはなかった。
 ところが、現代社会の金融ゲームは、ギャンブルに参加していない市民にも、例えば石油投機による灯油価格の異常な高騰という形で被害を与えている。社会全体がギャンブル場になってしまうとともに、市民が、ギャンブルの最終的なツケを払わされているのである。

 
 普通の博徒は、自分のツケは自分で支払いますが、ファンドの連中はちがいます。この点が指摘される問題点の一つです。しかし、一番の問題点は、投機に走る 「労せず大金を稼ぎたいという人間の欲望」 かもしれません。




 
 ファンドが実行犯なら、それ以外にも、このような投機的な金融の制度設計した主犯格がいます。

P101-102
 完全市場を前提にして、金融の自由化を声高に叫ぶ人は、歴史を規制と自由のせめぎあいとして理解する人が多い。~中略~ミルトン・フリードマンをはじめとして新自由主義の提唱者には、権力が規制を求め、市場がそれを跳ね返して自由を獲得するという勧善懲悪劇のような歴史観を前提にものごとを説く人が結構多い。マートン・ミラーもそのひとりである。
 例えば、彼は、 ~中略~大阪堂島の米の先物取引所について、次のように語った。 ~中略~

 フリードマンをはじめとして、シカゴ学派と呼ばれる市場崇拝の経済学者は、↑ この引用文にもある「権力が規制を求める」という筋書きが好きなようです。既得権益にしがみつく「シロアリみたいな連中」というのは、どこにでもいますが、この規制に関してはそのような類のものとは、少し主旨が異なります。
 あと、「完全市場」なんていうものは実在しません。絵に描いた餅みたいなものです。「神の手」も同様です。そのような絵空事を前提としているために史実を無視した発言が出てくるのでしょう。

P101-102
 「先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大坂の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした。それは現代の先物市場がもっているすべてを完備した先物市場でした。それはあまりにも成功しすぎてしまったので、政府につぶされてしまって、今日では存在していません。そして、同じようなものは生まれませんでした」。
 「(堂島米会所は)人類に対するすばらしい貢献だったからです。だから、現代の日本当局が先物やオプション市場を持つことを許可しないと聞いて笑ってしまいました。当局はただ自分たちの支配権が侵されることしか念頭にないのです。実にばかげています」。
 「世界最初の先物市場が政府につぶされてしまいました。最終的にはさすがの大蔵省も先物やオプションの取引を許可しましたが、それは私たちがうるさく文句をいったから、仕方なく引っ張られたのです」。 

 市場開放のために作為的に、虚偽を話しているのならまだしも、このこと(堂島会所崩壊の理由)を知らずに発言しているのであれば、史学に通じた人たちは、さぞ、あきれ返ったことでしょう。

 因みに、マートン・ミラーは1990年の「ノーベル経済学賞」受賞者の一人です。本書を読みながら、日本の経済史について下調べもしないで、自由化の要求をしにきたその姿勢にガッカリです。すべてのノーベル経済学受賞者がこのような人物ばかりではないと信じたいです。本当に残念です。

P102-103
 堂島米会所の歴史を正しく認識していれば、民間の力の拡大を恐れた明治政府が会所を廃止したという馬鹿げた議論などはとてもできなかったであろう。
 堂島米会所が明治政府によって閉鎖されたのは、マートン・ミラーの言うように、市場の力を新政府が恐れたからではなかった。堂島米会所は自壊したのである。この会所は、極端な投機に走り、民衆の最重要の生活物資である米の価格が暴騰し過ぎ、経済社会混乱の元凶となっていた。没落過程にあった旧幕府権力がこの会所を利用して投機に走っていたのである。
 幕末の幕府、諸藩の財政窮乏化が、会所崩壊の原因であった。この会所を利用して、担保となる米がないにもかかわらず、諸藩は過米切手、空米切手と呼ばれる融通手形を過剰に発行していた。これが全国に出回り、経済は大混乱に陥ってしまったのである。米価格は大暴騰し、会所はもはや先物市場も価格付け機能も喪失していた。幕末の金融システムを破壊したものこそ、先物取引の堂島会所だったのである(酒井・鹿野[2000])。 

↑ 著者の述べているとおりで、これが史実である。この事実を知らずして、先述の発言をしているのであれば学者失格でしょう。他の受賞者が泣くのではないでしょうか?
 また、この史実は近世後半、幕末の時代に起こった出来事にもかかわらず、現在の異常な物価高騰現象に、なんと酷似していることでしょうか。原油プラチナ、バイオエタノールの原料となる作物など、実物が無い状態で売買しているのですから。この取引システムに問題があることは間違いありません。 史実からもあきらかではないでしょうか。

P105
 歴史をしっかりと学ぶ必要が、つねに私たちにはある。とくに経済学の1部門が金儲けの自由を賞賛するだけの実学に傾斜してしまった現在、きちんとした人間学を作り上げることが大事である。金融のエリートたちは、その高額の収入のゆえに、若者のあこがれの的になる。しかし、彼らの天文学的儲けの裏に、金融ゲームの犠牲になって倒された人の荒野があることに私たちは思いをはせなければならないのである。

 この一節を読んだときは感動しました。本書の著者のように
京大出のM,→ Ph.D.中途 ような、超エリート学術者のなかにも薫陶をうけた素晴らしい人物がいるのだなと感じました。





 最後に本書から、
1933年生まれの進化経済学者・未来学者
ヘイゼル・ヘンダーソン女史の言葉の引用をいくつか採り上げておきます。

P138
 ヘイゼル・ヘンダーソンは、その著作(Henderson[1995])において、いまや、地球は産業主義社会の建設がもたらした負の遺産で満ち溢れ、この苦境から脱却するには経済構造や社会の価値観を根本から変化させる必要があると主張している。
 現在は、世界的な貯蓄過剰社会であると言われるが、そのほとんどは金融[革新](デリバティブ、ヘッジファンド) で積み上げられたドルである。これら、膨大な貯蓄が生産的に使用され、雇用を増やすために使われたことはない。ただ、見せかけの貨幣という数字を大きくしてきただけのことであると。
 そうした経済学批判でもって、氏は、「ノーベル経済学賞」を次のように批判する。
 1969年に設立された「ノーベル記念スウェーデン銀行経済学賞」は経済学を制度化するものであった。自由貿易、民営化、変動相場、地球をかけめぐるマネーを受け入れる門戸開放、等等を謳う「ワシントン・コンセンサス」を叩き込まれた経済学者たちが、金融を不安定にし、過剰負債社会を生み出してしまった。
 

 また、アルフレッド・ノーベルの兄弟の曾孫ピーター・ノーベルは女史に、次のように述べていたそうです。

P139
 「アルフレッド・ノーベルの手紙には、経済学賞を推奨する文言はない。スウェーデン国立銀行が、カッコーのように自分の卵を世間で高い評判を取っている別の巣に置いたのである。スウェーデン銀行は、商標登録の侵害に近い罪を犯した。真のノーベル賞を略奪したもので受け入れがたい」。
 「経済賞の3分の2はアメリカの経済学者に与えられている。とくに、株式市場やオプションに投機するシカゴ学派に与えられている。これらの賞は、人類の状態と私たちの生存条件を改善するというアルフレッド・ノーベルが抱いていた目標とは何の関係もない。それどころか正反対のものである」。

 ノーベル経済学賞に関するこの内容は、経済学に明るい人は既に知っている内容だと思います。ただ、知らない人も多いので、アメリカの当時の状況との関連性を重ね合わせて見ると面白いかと思います。受賞者の中には、リベラルな経済学者もいますので、すべてがシカゴ学派寄りの人物ばかりではありませんので、わたしはそこに注目しています。


P149
 スウェーデン銀行が、経済学を「科学」だとしたのは、経済学の政治性を隠蔽するためであった。経済学は、数学的な中立性を装っている。これは、経済学が、政治的に中立であることを示したいからである。「価値フリー」を装って政策を指導するためである。
 経済学は、300年にわたり人を欺してきた「蛇油」と同じものである。経済学の理論は証明不可能なものであるのに、強国の指導者が、経済学を使って、世界の政策決定に関与し、世界の為政者を植民地の人間のようにしてしまうのである。

 ある方のブログで教えていただきましたが、「民」と言う言葉の語源には、「奴隷」の意味があるそうです。隠蔽された事実、史実を押し付けられ、欺かれる存在としてあつかわれることが多いようです。ただ、「真実」というものは、「民」つまり民衆の側にこそあると考えています。
 
 

新しい門出を祝して


新たなる海へ  Friedrich Wilhelm Nietzsche

かなたへ ― われは向かわんと欲する、今より頼るは
この我と技倆のみ。
海原は眼前にひらけ、その蒼茫の涯へと
わがジェノアの船は乗りだす。

すべて新たに いよいよ新たに われを輝す、
時間をも空間をも眠りにおしつつむ正午    
なんじの眼ひとり    もの凄く
われを凝視する、なんじ 無限よ!
  
 
   

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